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耕作放棄地をみて思う限界集落の未来

更新日:7月16日

僕の住んでいる奥能登は、人口がどんどんと減っている地域だ。亡くなった人が書かれるお悔やみ欄がいっぱいなのに対して、出生欄は数行という状態でなかなかパンチがある。現在、うちの妻が妊娠しているが、母子手帳に刻まれたナンバーは令和4年度の28だった。つまり、妻が母子手帳を受け取った3月末の段階で令和4年の穴水町では出産を迎える人が28人しかいなかったということになる。


人口減少が凄まじいこの地域には農地が多い。だが、どんどんと作り手は減っており、年々耕作放棄地が増えている。管理できる人が少なすぎて、農地を貸してあげるというより、借りてくれるだけありがたやという状態になっている。そんな状況なので借地代はほぼタダだ。


マメな人のところには「農地を使ってくれないか」という声がかかるような状況で、いくつも農地を引き受けた人は、管理する農地が増えすぎて手間と燃料代がかかりすぎるという状況にもなっている。「親戚の土地だから荒らしたくない」とか、そういう惰性的な感情によってなんとか農地らしさを維持しているというレベルだ。


そんな状況の中、昨年まで現役だった人が病気などで倒れたり、亡くなったりする場合がある。そうすると、次に畑を管理する人が決まらないまま畑が放置される。うちの近所にもそういった畑がところどころにある。



放棄された畑を見ていると、夏には嫌というほど生えてくるはずの雑草が、いつまで経っても生えてこないことがある。ようやく生えてきたと思ったら、成長が遅く、なんだか色も黄色や茶色のような感じで、今にも枯れそうな雰囲気がしている。僕がよく見ている畑は、放棄から2年経ってもほとんど草が生えていない。


これは土壌のバランスが狂っているからだと予想される。肥料は入れればいいというものではなくバランスが大切で、窒素、リン酸、カリウムなどがバランスよく入っていなければ、生育障害を起こすこともある。腐植と呼ばれる植物の分解された残りカスが少なくなっても同じく生育障害を起こすことがある。タフな雑草ですら生えてこないということはよほどバランスが狂っているのだろう。


余剰になった肥料分を人為的に取り除くというのはとても難しい。入れすぎたものをもとに戻すには自然に生えてくる雑草や緑肥作物が吸収したり、雨で流れたりして濃度が薄まってようやくまともな土に戻る。何年もかけなければもとに戻らないこともある。野菜が育っていたのが不思議なくらいだ。


それに加えて、高齢の人は草刈り機で草を刈る体力がなくなり、除草剤に極端に頼るようにもなる。除草剤を適度に使うことは仕方がないことだとは思うが、極端に頼りすぎるのが問題だ。最初は電気柵の周りだけに散布してたのが、作物が植わっているすぐそばの畝間にまで散布するようになる。小耳に挟んだ話で信憑性はないのだが、除草剤の散布量が増えてくると、農地用の除草剤ではない安価な非農地用の除草剤を使うケースも出てくるようだ。(農薬登録のない非農地用の除草剤を農地に使うのは違法)


バランスの悪い施肥がされているのを目の当たりにし、農地用でもない除草剤を使っているという話をきいてしまうと「食の安全とは?」と考えさせられる。農薬も規定の濃度や頻度で散布されているのか疑心暗鬼になってしまう。


他にもビニールマルチを剥がす体力がないからと、生分解性でないビニールマルチをそのままトラクターですき込んでいるのも見たことがある。当然、マルチの素材であるポリエチレンは石油由来なので分解されず、細切れになった状態で畑の中に残る。マルチを使っているとどうしてもちぎれたりしてしまいいたたまれない気持ちになることもあるが、そんなレベルではないほど土に残ってしまう。


タバコを吸う高齢農家は、吸い終わったタバコを携帯灰皿ではなく、圃場にぽいっと投げ捨てる。水に溶け出たニコチンは毒性が高い上に、フィルターは木材と石油を原料にした半合成繊維の「アセテート繊維」が使われておりなかなか分解されない。


タバコぐらい大したことないと考えるかもしれないが、ヘビースモーカーは一日一箱のタバコを吸う。1日20本吸うとして半分が圃場に捨てられると考えれば、1ヶ月で300本、半年で1800本だ。10年続ければ18000本の吸い殻が圃場に捨てられる。局所的には悪影響が出ているような気がしてならない。


正直、僕は呆れている。慣行農法だとか、自然栽培だとかそういった農法の優劣どころか、基本的なコトができていない状況で高齢者が農地を使っているのが実情だ。おそらくこういった現象は奥能登だけではないだろう。はっきり言って、耕作放棄地にしておいたほうが農地は守られるのではないか?と思うほどで、悲しくなってくる。こういった高齢者には「おとなしく引退してくれ」と言いたい。(目の敵にされそうなので言わないけど)


地元のばあちゃんに話を聞くと、山の上をブルドーザーで開拓してから雨の日に川へ泥水が流れるようになったと言っていた。「昔はここで潜ると魚がいっぱい捕れたけど、今は何もおらん」「赤潮なんて昔はでなかったのに…」と言った話も聞く。人が減ったり、農地が減るというのは悪いことに思えるかもしれないが、どうせ使う人がいないのだから、環境が昔のように戻るチャンスなのかもしれないと僕は思うのだ。


人が減ることで道路は管理が間に合わなくなって荒れるかもしれないし、公共サービスも行き届かなくなるかもしれない。でも、昔の人は今よりもハードな状況で生きてきたのだから、多分大丈夫だろうと僕は楽観的に捉えている。自分が多少タフになればいいだけだ。インフラも必要以上にある世の中になってきたので、必要十分を見直すチャンスなのではないだろうか。


それに僕の周りにいる若者はとてもタフな人が多い。木が生えているような荒れ地をユンボも使わずに畑にしてしまう人や、機械を使わずにかなりの面積の畑を管理している人もいる。わからないことがあれば調べまくって、なんとか自分でやってしまうという人は珍しくない。無理に後継者を探すよりも、そういったタフな人がポジティブな動機で移住してくるのを待つ方が、よほど環境がよくなるのではなかろうか。短期的に表面上が良くなったと見えるより、長期的に本質的な部分が良くなるほうが理想的ではないかと僕は思う。


僕と同じく、奥能登の限界集落に住んでいる先輩が「昔は集落に20軒くらい家があったけど、今は3軒になった。近所関係もほとんどなくなったし、なにかにつけて文句言う人もいなくなったから、ここまで過疎化が進むとめちゃめちゃラクだよ」と言ったのがとても印象的だった。ちなみにその人も超タフな人で、何でも自分でやるタイプの人だ。


栄枯盛衰という言葉があるように、衰退するのは悪いことではなく、また栄えるために必要なフェーズだと僕は思う。人口が減ることを受け入れ、自分にできることを淡々とやっていくというのが僕にできる唯一のことだろう。ギアを一速に入れてゆっくり走れる人が集まれば、また状況はじわじわと変わってくるはずだ。未来は明るくも暗くもなくちょうどいいくらいなのだと思う。


僕は次世代に誇れるように、土を育てる農業をしている。化学肥料を使わず、土壌微生物を増やして年々土が肥えていくようなやり方で野菜を作っている。地味だが、年月をかける価値があると信じてこの取り組みを始めた。この記事を読んで共感できたという人に僕の作った野菜を買ってもらえればとても嬉しい。スーパーの野菜よりも味が濃いのできっと喜んでもらえるはずだ。


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