「僕はなぜ野菜を作って売るのか?」とか「買ってくれた人にどういった価値をもたらせるのか?」を改めて考えていた。これは活動していくうえでとても大事なことだと思う。方向性を決めるときの軸になるし、買ってくれる人を決める要素にもなるからだ。色々と実践してみた上で見える世界が変わってきて、こういうことを考えるようになった。
そんな中、色々なニュースを見たり、本を読んだりしていて「価値ってなんだろう?」というもっと大きな枠の疑問を抱くようになった。そもそも価値の意味はどういうものなのか検索してみた。価値とは『どれくらい大切か、またどれくらい役に立つかという程度。またその大切さ。ねうち。』ということらしい。
インスタグラムのリール動画か何かで「10億円もらえるかわりに今日死ぬとしたら受け取りますか?」という質問をする動画があった。質問された人が「いいえ」と答えたらインタビュアーが「いいえと言ったということは、あなたの明日には10億円以上の価値があるということです」と告げた。
なるほど、確かに10億円よりは明日の命をとるな…と僕も思った。多分、10億円でもダメだということは、それ以上いくら積まれても答えには変わりはなさそうだ。お金よりも明日以降の命のほうが大事なのだろう。
視点を変えてみて、あと1年しか生きられない代わりに10億円もらえる…となったらどうか、と考えてみたとき、YESと答える人は一定数いそうな気がしてしまった。僕はNOと答える自信があるけれど…
これってつまり、もらったお金を使い切る時間があるかどうか、が重要なポイントなのではなかろうか?と少し思った。パッとみて感動しそうな動画だったけれども、よくよく考えてみると、10億円と引き換える明日の価値も案外ゆらぐのかもしれない。
最近、よくNFTアートとかNFTスニーカーという、デジタル上のアートやスニーカーが話題になっている。これまでのデジタルデータはコピーすればいくらでも複製できていた。それに対し、NFTはコピーできない唯一性が保証されたものデータのことを指すようだ。唯一性があるので価値がでるということらしい。
NFTスニーカーのクリエイターだったかのインタビュー記事で、「スニーカーマニアは履かないスニーカーを大量に保有しているから、所有欲を満たせるものであれば実体がなくてもよいと思った」といったようなことを言っていた。
収集癖のある人からすれば、コレクションというものは、ほかに代えがたい価値があるものなのだろうと思う。僕も昔は収集癖があったのでその気持ちは多少わかる。でも、実体がないとなると途端に虚しい感じがしてしまうのは僕だけだろうか。
僕の好きなギリシャの哲学者エピクロスは欲求を「自然的な欲求」と「無駄な欲求」に分けている。わかりやすくいうと、食事、睡眠、住居など、人間が生きていくために必要な欲求が自然的な欲求。名誉や権力、必要以上に贅沢な食事のような、なくてもよいものが無駄な欲求だ。
話を戻すと、NFTアートとかNFTスニーカーといったものは、無駄な欲求である所有欲を満たすだけのものと思えてしまう。リアルに存在するスニーカーを集める行為も所有欲を満たすだけのものに思えるが、いざとなったときに実際に履けるという点が大きく異なるのだろう。先ほど感じると言っていた「虚しい感じ」はこの点から来ていそうだ。物理的に存在するということは、物質としての普遍的な価値があるのだと思う。
このNFTアートは、刹那の性欲を満たすアダルトビデオに近いのではないかと僕は思うのだ。所有欲を満たすだけのもの…と考えてみるとやっぱり虚しい。所有欲のためではなく、投資としてNFTアートを購入する人もいるらしいが、虚空のものに投資するというのはちょっと僕にはわからない。
しかしながら、NFTアートは時に凄まじい額で取引される場合がある。世界最高値を記録したNFTアートは79億円で落札されたらしい。どのくらいの野菜を作ればこの価値にたどり着けるのか僕には見当もつかなかったし、安価に性欲を満たせるアダルトビデオは良心的だなと思った。価値ってなんだろうと疑問は深まるばかりだ。
価値が高くなるものの代表に依存性の高いものがある。麻薬が最もわかりやすい例だろう。麻薬は一度接種すると、体内から麻薬がなくなったら強烈な離脱症状がでて、自分の意志では耐えられない苦痛を味わうことになる。そのため、再度接種するためにあらゆる手段を講じて麻薬を手に入れようとしてしまう。だから高値で売っても買い手が現れる。依存させてしまえば依存性のあるものの価値は跳ね上がる。
現代ではSNSなどが麻薬にとって代わり、SNSが依存性の高いものの代表格となっている。みんなSNSの中毒だ。スマホという身近な存在からアクセスできるSNSは、手に入れる難易度が高い麻薬よりも依存症の治療が難しいらしい。
SNSの多くは無料で使えるため、良心的に思えるかもしれないが、その代償は大きく、満たされない承認欲求に悩まされたり、自分のライフスタイルに自信を持てなくなるという副作用がある。SNSは人の承認欲求などを刺激するように徹底的にデザインされているからだ。
僕の友人は、これまで紹介してきたような働き方・生き方がいやで都会から田舎へ移住してきた人が多い。そんな人たちの中でも「ちゃんと不便なところで人間らしさを持って生きたい」と言っていた意志の強い人が、「ちょっと休憩したときについついツイッター見ちゃうんですよね」と悔しそうに言っていたのをよく覚えている。
確固たる強い意志を持って田舎に移住してきた人でさえも、SNSをついつい見てしまう。その依存性の高さは恐ろしい。僕も仕事で使っているとはいえ、よく見てしまうのでたまに嫌になることがある。おそらくSNSのネイティブ世代である都会の10代や20代は、僕らよりもさらに依存度が高く、また違った苦しい思いをしているのだろう。
そんな様子をあざ笑うかのように、各人気SNSの運営会社の企業としての価値は驚くほどに高く評価されている。表示される広告の収益でSNSの運営会社は荒稼ぎしているからだ。イーロンマスクがツイッターを買収して、組織改革を行った際の旧組織の豪遊っぷりが報じられたのは記憶に新しい。
ここで価値の意味を再度考えてみたい。『どれくらい大切か、またどれくらい役に立つかという程度。またその大切さ。ねうち。』という「価値の意味」を改めて考えると、これまで紹介してきたように役に立っていないものほど価値が高いケースが多いという矛盾に気が付く。法律で取り締まられない程度に依存性を高めることで、価値は跳ね上がるからだ。
価値が高いというと、さぞ立派なものかのように思えてしまうが、価値の負の側面について考えていくと、価値というのはそれほど大事なものでもないのかもしれないと僕は思ってしまう。
もっと本質的に言えば、価値という言葉が誤用されているのではないのか…と感じる部分がある。どれくらい役に立つかを基準に考えていくことこそが「価値」という言葉の意味として適切なのだから、どれくらい役に立っているかで価値が高いか低いかと判断したほうがいいのではないかなと思う。人の役に立っていないもの、例えば麻薬なんかが高い金額で取引されているからと言って、価値が高いというのは間違っているのではないかと僕は思う。
僕はものを買うときに「世界に自分ひとりしかいなくなってもほしいと思うか」を基準とすることが多い。こう考えれば、誰かに自慢したい、かっこいいと言われたいというような欲求を切り離して考えられる。この考え方になってからはブランドの名前で服を買うことがなくなった。
動きやすいとか、汗をかいてもすぐに乾くとか、臭くならないとか、そういった機能性でものを見られるようになった。機能性や物理性は、壊れない限り失われない。そうやってものの価値をはかるようになってからは、ものを大事に使い古せるようになった。寿命までものを使ってあげることで、ものの価値(役に立った度合)が最大化されるし、環境にもいいはずだ。環境にもよいのであれば、ますます価値は高まる。
僕は少なくとも、自分の提供する商品を買った人が、苦しい思いをするような商売はしたくないなと考えてしまう。価値という言葉の意味を正しく捉えて生きていきたい。
僕が作った野菜の価値をどういったものにしたいのか、という冒頭の話に戻ると、僕は人を幸せにできる野菜が作りたいなと思う。ありきたりだけど、やっぱりそれに行き着く。
自分の思いをしっかりと言語化して、僕の野菜を買いたいと思った人に伝えられるようにしたい。伝えることで、新たな価値に気が付くかもしれないからだ。最近は、野菜をどうやって調理すれば栄養が最大化するのかや、おいしさが最大になる切り方なんかを調べて知識を蓄えている。そういったことを学び、伝えていくことで、僕の販売する野菜の価値が高まると思っている。作って、売って、終わり、では野菜そのものの価値だけしかなく、なかなか僕を選ぶ理由にならないだろう。
僕は田舎暮らしを始めた当初、古民家に眠っていた古道具の使い方がわからなかった。最初は「こんなもの捨ててしまおう」とガンガン捨てていたのだが、知識がつくにつれて捨ててきたものの中に、生活の役に立つものがあったのを知ってしまった。知識が増えるとともにそれまでゴミにしか見えなかったものが優秀な道具に変わった。視点が変われば、価値は向上するのだなと知った瞬間だった。
誰よりも自分が作った野菜の持つ価値を理解する必要がある。野菜について学び、活用方法について学び、価値を創造していこう。僕にはまだまだ勉強が必要なようだ。
でも、価値を創造していくという行為から、真摯さがなくなったり、モラルが欠けてしまったりすると、これまで話してきた「人を苦しめる商売」になっていくのだろうと思う。難しいなと思いつつ、今日も自分のスタンスがどうあればいいのか考え続けるのであった。