エピクロスは古代ギリシャ時代の哲学者だ。当時、絶対的な王であったアレクサンドロス大王が死に、あらゆる権力者が実権を握ろうと戦に狂う、荒れに荒れた世の中だった。そのような世の中で「どのようにすれば幸福に生きられるのか?」を追求したのがエピクロスだ。
この時期のギリシャでは、ストア派やキュニコス派といった幸福を追求する派閥がいくつもあったほど、幸福について見つめ直された。ストア派は理性で欲を抑え込み、キュニコス派は何も持たないことで幸福を追求した。

エピクロスは、快楽を追求する「快楽主義」を掲げ、隠遁生活を送り、ストア派やキュニコス派とはまた違った方向性で幸福を追求した。快楽主義というと欲望にまみれたような印象を受けるかもしれないが、快楽主義では必要以上に贅沢な食事や家、権力や名声といったものを求めない。その代わり、心の平穏を求めることを最重要視しており、衣食住などの必要不可欠なものを満たした上で苦痛や恐怖を排除するという質素な考え方をしている。僕なりの解釈をすれば、余計な刺激を減らして、身近にある小さな幸福を見つけられるようにするという感じだ。
余談だが、歴史は繰り返されるもので、第一次世界大戦後のヨーロッパでも「実存主義」と呼ばれる哲学が登場し、自分たちがどうあればいいのかを追求しはじめた。人間は世の中が荒れると幸福を見つめ直すようになる。ひょっとすると現代も実は世の中が荒れているのかもしれない。
僕は結構前からエピクロスの考え方が好きで、彼の思想に近い生活の実践もしている。田舎に住み、できるだけ自分たちの作ったものを食べて暮らしているのだ。僕らの生活は、世間一般のような贅沢な生活ではないが、十分に満足できる暮らしができている。お陰でちょっとしたことでハッピーになれるのだ。
特に幸福を感じるのが食事で、僕らは自分たちで野菜を作り、魚を釣ってくる。100%自給自足というわけではないが、一から食材を調理し、食べる食事はとてもおいしい。正直言ってめんどくさいこともあるが、人生なんて大抵めんどくさいもんだ。
普段、自宅で食事をしているときには特に気にかけないのだが、外食したときに気付かされることがある。「普段、家で食べている食事はなんておいしいのか」と。自分たちで作ったというプラス補正ももちろんあると思うが、家で食べる食事は素材の味がとてもいいので、味付けにごまかされていない。普段食べているもののほうが余計なものがなくて美味しいということに気がつく。

流石に一流のシェフが作る高級フレンチに味は負けるかもしれないが、手抜きの料理でそれに迫るくらいの美味しいものを食べられているのはなんて幸せなんだろうと気付かされる。余談だが、フランス料理は冷蔵技術がなかったころの内地で、鮮度の落ちた食材の臭みを消すために香辛料やソースが発達したらしいので、新鮮な食材であれば調味料はほとんど使わなくても美味しいというのは当たり前なのかもしれない。
普段食べている食事並みに美味しいものを外食で食べようとすると一体いくらになるのかと、下世話ながら時々考えてしまうこともある。緩やかに楽しみながら畑仕事をして、日が暮れれば夕飯を食べてお風呂に入ってストレッチをして、本を読んで寝るだけで十分楽しく暮らせるのだ。手をかけて生きることで生活に掛かる時間でいっぱいいっぱいになるので、余計な娯楽もほとんど必要ない。(僕の場合、渓流釣りだけはやめられないが…)実際、田舎に住み始めてからは退屈を感じたことがないくらいだ。
現代社会はものを売るために不要なものをさも必要かのように訴えるという仕組みで成り立っている。それが当たり前になっているので、違和感を覚えないという人も多いのだけれど、エピクロスの言うように必要以上に贅沢なものや権力、名声を求めないと割り切ってしまうと途端に違和感が溢れてくる。
僕は色々な仕事をしたからか、わりと幅広いスタイルの職種の人と関わりがあった。年収や学歴にこだわっていた人が社会にでてから会社に絶望して引きこもったり病んでしまったりしたというケースも結構知っている。実際にうちの妻がこのタイプだ。僕と出会った当初、妻は鬱で休職中だった。プライドが高かったらしく、学歴もないのに知識がやたら多かったり、楽しみ方を知っている僕を見てちょっとムカついていたらしい。そのうち「こういう生き方もありなんだな…」となったらしく、今は僕と一緒に田舎で楽しく暮らしている。

社会にでて引きこもったり病んだりしてしまうのは、自分にとっての幸福がどういったものなのかを考えて来なかったのが大きな原因だろう。多くの人は「お金さえあれば」「いい大学さえ出れば」と考えるが、実際にはそうではないし、人それぞれだ。友達と仲良くワイワイするのが幸せな人もいれば、1人で淡々と考え事をしたほうが幸せな人もいるだろう。日本人はしっかりと幸福について考えなければいけない時代になってきたのだと思う。
僕に言わせれば日本人の多くは幸福に対しての理解が浅すぎるのだ。ネットには「お金の勉強が必要だ」という意見が溢れているが、僕は幸福の勉強が必要だと思う。どういう状態になったら自分は幸せなのかは、深く考えていかないと分からないからだ。
僕はWeb系フリーランスに一時期なっていたが、稼げるようになるまでは必死で仕事をやっていた。しかし、稼げるようになった途端「自分は何をしているのだろうか?」という問答に苛まれるようになった。それは自分の幸福への理解が浅かったからだ。そこから色々と考えて、少しづつ仕事や生活を変えてようやく楽しく暮らせるようになった。田舎に移住してから、もがいて、もがいて、不満がほとんどないと言えるまでおよそ4年掛かった。田舎に移住しようと決意してから移住するまでに3年くらい掛かったので計7年の道のりだ。自分にとっての幸福を実現させるには意識していても長い年月が掛かる。
エピクロスは「静かに生きよ」とも言っている。これは社会から距離を取って暮らせという意味で、つまりは社会的なノイズを減らせる場所で暮らせということだ。先日書いた記事でも書いたのだけれど、僕は人との距離もしっかりと取るようにしてから幸福度が爆上がりしている。意見の違う人との距離が取れるようになった結果、深い考えの無い批判にさらされることが少なくなり、自分の道を信じて突き進めるようになった。人との繋がりは幸福をもたらす一方で、不幸ももたらす。どんな人と付き合うかを見極めることがとても重要だ。
僕は幸福について考えていく上で、エピクロスの哲学を学ぶことが大きな力になった。この記事を読んだ人が幸福について考える機会になれば嬉しい。別にエピクロスの書を読まなくても、ブログとかで要約をさらっと読むくらいでも大きな視点の変化があと思うので、色々調べてみてほしい。2000年も前にここまで考えられてるこの人何者なんだろうなと思うはずだ。
これまでの話とは全く別物にはなるが、哲学を学ぶことと同じくらい、自分がこれまで育ってきた環境で染み付いている偏見を取り外していくことも僕は重要だと思っている。今までの常識が間違っているのではないか?と疑問を持つことで幸福への解像度が高まる。僕は言語学者が狩猟採集民族と関わっていく本を読んで、自分の中の常識があまりに偏っていることに気がついた。狩猟採集民族は、先進国に住んでいる我々よりも幸福については進んでいる。笑顔の時間が圧倒的に長く、今に集中しているからだ。今回はちょっと話が長くなってしまったのでこの辺で終わりにして、その話についてはまた今度書こうと思う。