僕は幸せのあり方についてよく考える。「はたして今は幸せなのだろうか」と、今思い返せば高校生くらいから考えていたように思う。思春期にはいると、同年代の友人は軒並み流行りに乗っかり、その度に違和感を覚えていたからだ。「なんとなく周りと同じものを好むこと」に対して懐疑的だった。なにかアーティストが流行るたびに僕は「いいと思えない」と思うことが多々あった。それは「本当に好きなのか?」と思っていた。30代も半ばになって高校生のころに感じていた疑問が少しくっきりとしてきた気がしている。
僕は現代社会に馴染めることは才能の一つだと思う。あらゆるモノやコトが、僕らの感覚を麻痺させ、良いものだと洗脳してこようとする。「今良いと思っているもの」が自我による価値観なのか、他人に植え付けられた価値観なのかが分からなくなってくる。そんな中、正気を保って生きていけるというのは間違いなく才能だ。
マーケティングを学んだ人であれば、その洗練されたマーケティング戦略に戦慄したことがあるのではないだろうか。広告を表示する位置・頻度、ボタンのデザインなど、ありとあらゆる技を駆使して、人間の性質のスキを突いて商品を買わせようとしてくる。必要なものであればいいが、およそ必要でないものを自発的に買うように仕向けてくるのだ。一生懸命働いて稼いだお金を使わされるのだから恐怖でしかない。
現代社会に適合できている人は「なぜそれをするのか」「なぜしなければならないのか」はあまり考えない。もしくは、考えないようにしているかだ。器用な人は考えないようにできるかもしれない。でも、僕は「なんで会社に勤めなければいけないのか」「なんで商品を開発しなければいけないのか」など、当たり前にやっていて考えても仕方がないことを常に考えていたし、気になって仕方がなかった。あらゆる事柄から、誰かの思惑が渦巻いている気がしていたからだ。
もう少し思考が進むようになると「こっちを選んだけどこれは選ばされたのか?」みたいな疑念も思い浮かんでくる。電車の吊り広告や駅の柱のポスター、SNSの広告などがある時気持ちが悪くなって、逃げたくなった。その時は、広告などが渦巻く「都会」という世界から逃げれば全て解決すると思っていた。だからパソコン1台でどこでも稼げるスキルを身につけて、田舎に移住した。当時はWeb上の文章を書くライターなんかを細々とやっていた。

ところが、田舎に移住しても「およそ必要とされていない商品の販促」や「広告収入を得るための記事執筆」などをしていると、自分が何をしているのか分からなくなってきた。さっき言ったマーケティングなどにも触れる機会が増えて、「自分は必要とされていることができているのか」と自己嫌悪に陥った。畑で食べる野菜を作ったり、船で魚を釣りに行ったりといった自分の食べるものは自分で準備するといったライフスタイルには、兼ね兼ね満足できていたが「金銭を稼ぐプロセス」にあまり満足できず、幸福度はそこまで高くなかった。
この状況から、請負仕事ではなく自分で商売をしたほうがいいのでは?と思い「田舎体験シェアハウス」を立ち上げた。初めての商売だったので必死で集客した。頑張ったお陰でそこそこ上手くいったし、収入もそこそこできたが、あまり幸せではなかった。元々の性格が社交的ではなかったため、色々な人の考え方が交錯するのが辛くなってしまったのだ。
怠惰なのにワガママな人、一人で考えて行動できない人、言う事を聞かせたいだけの人、様々な人の様相を見ていると、まとめるのがしんどくなってきた。大半が自分の志を持っている人だったが、なかには社会生活への不満が行き場をなくして、逃避行になっているような人もいた。逃げるのは悪いことではないが、自分で責任を取ったり、逃げ道を開拓する必要はある。でも、それもしようとせず、全て周りのせいにする人もいた。当初は田舎暮らしなんて誰でもできると思っていたが、人には適正があるというのをこのときに心底思い知った。
嫌にもなっていたが、そのうちそういった人たちを反面教師にするようになった。自分が幸せではないのを人のせいにしてしまうくらいなら、すべての責任を自分で取れるような仕事をしたいと考えるようになり、そうこうしているうちに農業をやろうと思った。周りからは遊びだと思われていたが、自分は真剣だった。そんなこともあって、人間関係のトラブルが頻発していたシェアハウスは閉じることにした。

食事は人間が生命を維持するために必須なことだ。その食に携わることは本質的で間違いないと思う。人間の営みの中で無駄を削ぎ落としていったときに、できるだけ最後に残るものを生業にしたいし、どうせなら自分が健康になれるような野菜づくりをしたいと思っている。
野菜を売るために作るというのを1年ちょっとやってみて、これからももっとやっていきたいという思いが強くなってきた。上手くいっていないことも多いが、家庭菜園のころから土作りをしている畑は3年目に入り、これまでの倍の勢いで作物が育ち始めている。「化学肥料使えばどうや」「農薬使えばどうや」という周りの声に誘惑されず、自分が信じた野菜作りを続けてきて本当に良かったと思う。化学肥料を使わず、微生物の力を引き出して作った(微生物に作ってもらった)野菜は、かなり美味しい方だと思っている。
人間は「もっともっと」と求めてしまい、どうしても要素が増える傾向にある。食事だって穀物・野菜・肉や魚があれば何も問題がないはずなのに、スイーツやサプリメントなど本来は不要なものが、さも必要かのように居座っている。でも、本来的には米と野菜と肉や魚があれば、十分に健康的な生活が送れるはずだ。栄養価が高く、甘みも強い野菜を食べることができれば、食卓に砂糖もいらなくなるかもしれない。「野菜が甘いから砂糖はいらない」となるのが僕の理想形だ。うちの食卓ではすでにそうなっている。
自分のやりたいことに集中するため、人と関わる時間もうんと減らした。今までは「必要かも?」と思っていた人間関係もズバッと切った。最初は怖かったがこうすることで、栽培方法を学ぶ時間、作物の観察する時間、土作りにかける時間、どうやって野菜を売っていくか考える時間が増えた。急な来客でスケジュール調整をすることもなくなり、休む時間も取れるようになった。やりたいことに使える時間が増えたことで幸福度も上がった。僕の幸福度が上がることで、妻と接するときに僕がゴキゲンな時間も増えた。いいことづくめだ。デメリットは特に感じていない。
自分の考えに没頭できるようになり、すべての責任を自分で負えるようになると、あらゆる反対の意見も心に響かなくなる。1年前や2年前はルサンチマン精神のようなものがあったが、今はそれを乗り越え、簡単には折れなくなり、人のせいにしなくなった。目立つことも避けるようになった。目立っても変な人との遭遇確率が上がるだけで、そう多くのメリットはない。
紆余曲折あったけれど、腰を据えて物事に取り組めるようになり、あらゆることが楽しめるようになってきた。自分が本当に良いものだと思えるものを販売するのは迷いがなくて本当に気持ちがいい。これからもどうすれば良い野菜が作れるのかを研究しながら自分のペースでやっていく。じっくり僕の人間性やものづくりへの取り組み方をみて、理解してくれた人が商品を買ってくれればそれでいい。
「人間関係とやるべきことを少なくして集中して取り組む」というのが、僕の幸せに楽しく暮らすための教訓だ。もちろん幸せや楽しさの定義は違うと思うが、他人の意見に流されてモヤモヤしている人に、この殴り書きが少しでも力になれば幸いだ。読んで良かったと思えた人に野菜を買ってもらえれば文句なしである。アフィリエイトだと後ろ髪を引かれる感覚があったが、自分が自信を持って進められる商品の販促だと気持ちよくかける。